「雲海に浮かぶ箱舟」 photo: Toshihisa Ishii (Blitz Studio)

「雲海に浮かぶ箱舟」 photo: Toshihisa Ishii (Blitz Studio)

「雲海に浮かぶ箱舟」 photo: Toshihisa Ishii (Blitz Studio)

「Vertical / Horizon」 photo: Satoshi Ikuma (TechniSaff)

「大きな屋根の家」 photo: Takayuki Mori

「大きな屋根の家」 photo: Takayuki Mori

「Gazebo House」 photo: Satoshi Ikuma (TechniSaff)

「(仮称)長崎のO邸」 photo: Satoshi Ikuma (TechniSaff)

「千々石の家」 photo: Satoshi Ikuma (TechniSaff)

「maimai house」 photo: Toshihisa Ishii (Blitz Studio)

「maimai house」 photo: Toshihisa Ishii (Blitz Studio)

「Mothership O」 photo: Satoshi Ikuma (TechniSaff)


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建築輿論

2014年1月18日

建築輿論というイベントに出展しています。下記文章は、参加者と、来場された方に配られる冊子の僕のページに書かれたアドレスを辿ってこられた方向けに記しています。


それと同時に、僕の考えを知ってもらうためにも良い機会だと思います。依頼を検討されている方はぜひご一読ください。


建築輿論の詳細はこちら


■建築輿論で掲げたテーマについて


僕のこれまでの仕事は大半が住宅で、衣食住という人の営みの基本的要件の中で、おのずと「住」ということについて考えてくることが多かった。


建築の中でも特に、住に関する部分を軸に建築輿論に加わってみたいと思う。


「住むというよりも棲むという感覚をもたらしたい」


というテーマを掲げた。「棲むという感覚」という言葉は、最近完成したいくつかの住宅を説明する際になんとなく使い始めた。多大なお金をつぎこんで建て、人生の大半、そこに身を置くであろう住宅には、一般的に望まれる暮らし易さのようなことよりも、もっと大切なことがあるのではないかと思いながらデザインしている。その結果できた住宅建築を説明するのには「住む」よりは「棲む」という言葉の方が適切なように思えたからだ。なぜそう思うのか明快な答えはまだ持ちえていない。


この記事は、建築輿論というイベントへの参加を機会に、「棲む」という言葉の考察を通して、住宅が果たすべき「もっと大切なこと」について、今ぼんやりと考えていることを記述してみたい。


■「住む」と「棲む」


住という字は人が主と書く。


動物に用いる言葉を特別に「棲む」として分けているのではなく、人間の行為に対して特別に「住む」という言葉が使われているといえる。


食べるという言葉は動物にも等しく使われるのに対し、「すむ」という言葉は人間と人間以外で使い分けられている。居場所を定めることを「すむ」というのであれば、人が「すむ」ためには、他の動物よりもソフィスティケートされた人間特有の活動を伴う。例えば「住宅」という言葉は、生涯払い続けるローンや、それによってもたらされる不動産的価値など、経済活動と切っても切れない関係にある商品を連想させる。


■口の悪いクライアント


(衣はさておき)もちろん食だって、料理については人特有の行為だ。住以上に文化や歴史の違いが現れる多様性があり、他動物の「食べる」とは大きな違いがある。


しかし、「住」と「食」の違いについては、とある口の悪いクライアントから面白い指摘をされたことがある。このクライアントは、小さな農場を持つファーマーだ。一緒に酒を呑むと、酔ってこんなことを言う。


「お洒落な家なんて無くたって生きていけるだろ?でもさ、野菜はなかったら生きていけないんだよ。美味い物食べてると心が豊かになるだろ?だから美味いコメや野菜つくってる農家は建築家なんかより農家の方がよっぽど偉い。」


建築家としての僕を腐したいだけの笑い話なのだけど、この話は心に強く残った。


「食」に比べて「住」は、生物としての人間が生存し存続していく上での根幹的で本質的な行為ではないよ、という彼の指摘は、住空間の創出という生業への挑発のように感じた。


俺達農家の仕事は人の血肉を、精神を形成している。対してお前たちの仕事の本質は何なのだ?と。


■クライアントへの想い


酔っ払った彼のカラミをまともに受けてこんなことを考えるのは、作家として住空間の創出に関わる意義について常々考えていることと繋がっている。


クライアントは、マンション購入を選ばず、ハウスメーカーやビルダーに頼まず、なぜ僕という個人に依頼してくるのか・・・人生の大事を預けてくれるクライアントに対し、僕のクリエイティビティだけがもたらすことができる幸せとは一体何なのか。それはいわゆる「オシャレ」なインテリアやエクステリア、もしくは一般的な不動産価値や、不快ではないという意味の快適性だけではないことは確かだ。いや、それらは当然あるものとして、それらを超える何か、をもたらさなければならないと思っている。


その思いが、「住むというよりも棲むという感覚をもたらしたい」という言葉に込められている。
「棲む」という感覚は、人間の本質的な部分に空間が作用する、もしくは関与できる可能性を感じる。言い方を変えれば、「住む」ということでは表現し得ない何かを空間が生み出した場合を、「棲むという感覚」と定義しても良いのではないだろうか。


そしてこういったことを求めるクライアントに全力で仕事をすることが、作家としての存在意義なのだと思っている。


長々と書いたが、上述のようなことを下敷きとしたうえで、「棲む」という言葉を意識しながらも、建築家としては最終的に「住」空間を造るわけだが、具体的にどのようにカタチとして落としこむかということを模索しなければならない。そのカタチは何を視点とするかによって変わってくるであろう。


具体的な取り組みについて述べる前に、空間に落としこむ際にキッカケとして僕が強く意識していることを記しておく。


■関係性のデザイン


動物はそれぞれの個体に適したフィールドで、様々な繋がりの中で生きていく。辞書的にいえば、自分のフィールドにある全ての生物群集とそれらの生活に関与する環境要因を一体としてみた生態系の一部として生きている。「棲む」という感覚は、この生態系という言葉と対になって、「住む」に比べより多様なで広範囲に及ぶ関係性を前提としているように感じる。


もちろん人間が「住む」上でも否応なしに関係性が生まれる。場所やクライアントの特性によってその関係性も様々だ。この関係性に着目し、生態系のように捉えてより意識的になると建築、特に住宅のあり方は変わってくるように思う。九州、特に福岡はそうしたチャレンジがやりやすい土壌にあると思う。


■N邸


先述した口の悪い農家のクライアントの住宅は現在計画中なのだが、まさに彼らの生態を浮き彫りにするようなあり方になる。


敷地は六本松という市内中心地で、周辺には大濠公園や護国神社があり、交通の便も非常に良いところにある。ご主人が育った、現在住んでいる家の建て替えをする。ご夫婦と、小学校中学年の娘さんの3人家族。


ご主人は糸島で農業を営んでいる。有機農法で良質な野菜を生産し、農協との取引は一切おこなっていない。市内中心にある自宅に、農作業を終えて帰宅する道程が配達を兼ねている。意識の高い飲食店が彼の取引先で、スーパーの袋に入るくらいの量を毎日届けて回っている。店によっては彼の農場の名前をサラダのメニューに取り込んでいるところもある。


奥さんは学校の先生をされていて、現在は自転車通勤している。時間を見つけては自宅近くの大濠公園内にあるスタバで読書を楽しみ、ヨガ教室に通って健康維持とストレス発散に努めている。


自宅から1時間ほどの田川というところに奥さんのご実家がある。現在の自宅とはうってかわり、田んぼが広がる自然豊かな中に建つ、とても大きなお屋敷らしい。少し前にお母さんが亡くなって、現在はお父さんが一人で住んでいる。週末にはお父さんの様子見を兼ねて、必ずといっていいほど家族でこの実家に出向き、休日を過ごしている。


このご夫婦は、決して大金持ちとはいえないが、公務員と自営業というバランスの良いダブルインカムであることもあり、経済的にも時間の使い方という点でも、とても豊かな暮らしをされている。そしてそれは将来にわたり、非常に安定的である。


忙しい中、外食で美味しいものを食べることは惜しまない。旅が好きで、クルマに乗っていつもどこかに出かけている。温泉であることが多い。


こうした彼らの生態からすると、とても便利な市内中心地に建てる住宅について打ち合わせを重ねるにつれ、自己完結するような立派なものではなくて良いのではないかという結論に達した。


糸島の農地、六本松、自宅、大濠公園、スタバ、護国神社、田川の実家、温泉、クルマ、、、


これらを彼らの生態系として一繋がり、一体として捉えると、これから建てる住宅が担う役割はとても小さいということが共通認識となった。


彼らの収入や、土地アリという条件、福岡という土壌では、そうある必然性は無いのだけど、より積極的にコンパクトであること。コンパクトリッチな住宅をつくることがテーマとなった。


延べ床面積23坪という数字は、当初の計画から15坪もシェイプアップした。


住宅を商品として捉えると、小さくなることは主に予算的都合による「縮小」なのだが、作家性がそこに関与することで、新たな価値観を生み出すことができる。


通常住宅に期待される要素を手放した時に初めて見えてくるリッチネスがあるということに気づいたのは僕にとっても収穫だった。


当然、大きいものに比べ、予算もそこまでかからない。予算が少なくて済んだ分、人生のファイナンシャルプランは余裕のあるものになる。


これはつまり、住宅建設を通した、彼らの人生や活動フィールド全体を見据えたデザインである。
彼らは、この家で暮らすことによって「すむ」フィールドを住宅から都市へと広げ、「棲む」という感覚を手にいれることができるにちがいない。


完成した暁には改めてレポートしようと思う。


■建築輿論の出展物


上述のN邸や、すでに竣工した物件の模型を改めて作成し、展示することも検討した。だけど、どうせ時間と労力をかけるのであれば、「棲む」という感覚を手に入れることができる、具体化する可能性のあるプロジェクトを立ち上げようと決めた。


敷地は、売り地を自分で見つけてきた。そこに勝手に計画しているのだから、オーナーさんが知ったらビックリするだろう。だから具体的な場所を示すのはやめておく。


福岡市内、某地下鉄駅から徒歩4分ほどのところにある実在する土地だ。駅近くにあるスターバックスも徒歩4分ということになる。これはつまり、天神までドアトゥドアで20分ほどで着くことを意味する。都市高速のインターまでクルマで5分かからない。


価格は200万円。貯金好きな大学生なら現金で買えてしまうのではないだろうか。


敷地面積は実測で25㎡ほど。形状は三角形で、ひとつの角は円弧になっているという超ド級変形狭小地。東京や関西ではそう珍しくないかもしれないけど、建ぺい率70%(角地緩和)容積率200%という制限が厳しくのしかかる。


地下室の容積率緩和を利用しても延べ面積約60㎡という広さは、まさに有名な「塔の家」的規模だ。


塔の家と圧倒的に違うであろうことは、この建物は坪100万という仕様で作っても、諸費用、土地込み2500万程度でできてしまうという点だ。100万はやり過ぎだから、2000万くらいは目標値として現実味がある。


この住宅での暮らしは「棲む」感覚をもたざるを得ないだろう。


とある、資金力をもった不動産屋さんが、ひょっとしたら建売りもしくは計画案を利用して売り建てをするかもしれない。


「棲む」感覚に共感し、2000万程度調達できる人はぜひお声掛けを。そしてぜひ建築輿論の会期中は会場に足を運んで模型を御覧ください。


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